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【連載】三河市民オペラの冒険<3>「また観たい」伝わった熱量(オペラ評論家・香原斗志)
(写真・右から)聴くたびに進化するメッゾソプラノの脇園彩さん、筆者、大輪の花を咲かせると期待されるテノールのステファン・ポップさん=イタリア・ボローニャ歌劇場の楽屋で
制作サイドの熱量が高いオペラは客席も沸く。最たるものが、2023年5月に上演された三河市民オペラのジョルダーノ作曲「アンドレア・シェニエ」だった。私は打上げであいさつした際、「ミラノ・スカラ座の公演よりも盛り上がった」と話したが誇張ではない。オペラの殿堂と芸術的な水準を比較しているのではない。客席の熱気は、たしかに豊橋が上回っていた。
もちろん、指揮者、演出家、歌手、合唱、オーケストラという「素材」は重要だが、それらが一定の水準でそろったあとは、客席の反応、すなわち観客の心の動かされ方が、舞台から伝わる熱量に左右されるのは間違いない。
私はオペラ鑑賞が生活の一部である。昨年は欧州だけでも30公演程度は鑑賞したが、本場のすぐれた公演でさえ心を打たれるとは限らない。ましてや国内の公演は、客席にいることを後悔することも珍しくはない。しかし、そんな中で心が躍った公演には共通して熱量があった。
昨年12月、藤沢市民オペラのモーツァルト「魔笛」は、温かくまとまった質の高い公演だった。同じ月には、神戸文化文化ホールがオペラの制作にはじめて挑んだヴェルディ「ファルスタッフ」を鑑賞したが、総力を挙げた熱気が客席を包み込んだ。ちなみに両公演とも満席だったが、それは上演前から熱気が伝わったからだと思う。
したがって三河市民オペラも、周囲を引っ張る制作委員長の高い熱量が失われないかぎり、ふたたび成功することを少しも疑わない。
■みな正のエネルギーを欲している
「人はパンのみにて生くるものにあらず」。だが、この失われた30年においては、パン以外のものに触れて人生の養分を吸収する余裕を、私たちの多くが失っているように見える。だから、SNS上での憂さ晴らしが後を絶たず、人々の心から潤いがさらに失われていく。
そんな状況だからこそいっそう、私たちは熱いものに敏感になっているように思う。
残念ながら熱量が低い公演は、オペラの裾野の拡大につながらない。一方、三河市民オペラの「アンドレア・シェニエ」のほか、前述の「魔笛」や「ファルスタッフ」は、初めてオペラに足を運んだという人の多くが「また観たい」という感想を残している。それは芸術としての質もさることながら、私たちが早く脱したいと願ってやまない失われた30年とは別の方向を向いた、正のエネルギーが漲っているのを感じるからではないだろうか。
とりわけ三河市民オペラは、資金集めから制作業務まで地域経済を担うビジネスマンたちが携わって、その行動力や人脈を生かしている。多額の協賛金を集め、チケットはすべて売り切る。そうした力はおそらく出演者のほかあらゆるスタッフに伝わり、観客に向けた熱として発散されるのだろう。
■熱量さえ失わなければ
たしかに「アンドレア・シェニエ」は出演者が多く大がかりで、上演が困難なオペラの一つである。知名度も高いとはいえない。それを圧倒的な成功に導いたあとで再度、観る人の胸の内を熱くすることができるかどうか、不安になるのはわかる。諸物価が高騰し、以前の制作費では賄えないのも事実である。
だが、もっとコンパクトに上演できて、日本に適任の歌手がいて、これまで以上の感動を呼び起こすポテンシャルがあるオペラはたくさんある。そこにこれまでと同じ熱量を注ぎ込んでいただけるなら、私たちはパン以外の大事なものを吸収し、それを未来への希望につなげることができる。失ってはいけないのはただ一つ、熱量である。
※神奈川県生まれ。早稲田大学卒業、声楽作品を中心にクラシック音楽全般について執筆。著書に「イタリア・オペラを疑え!」「歌声のカタログ 魅惑のオペラ歌手50」(共にアルテスパブリッシング)など。毎日クラシックナビ「イタリア・オペラ名歌手カタログ」などの連載をもつ。歴史評論家の顔もあり、近著に「教養としての日本の城」(平凡社新書)「お城の値打ち」(新潮新書)。